「振り込まれた額が、聞いていたのと違うんです」
退職金の相談で、ときどきこういう連絡をいただきます。会社から示されていたのは2,000万円。ところが実際に入ってきたのは1,580万円ほど。400万円以上が、どこかへ消えている。
明細を見せてもらうと、所得税の欄に408万円と書かれていました。
計算間違いではありません。ある一枚の紙を出していなかった。それだけの話です。
そもそも、この紙は何なのか
「退職所得の受給に関する申告書」といいます。名前が長いので、現場では「退職所得申告書」と略されることが多い。
やることは単純で、退職金を受け取る前に勤務先へ出すだけです。税務署に持っていくものではありません。会社が保管しておく書類で、税務署から特に求められない限り、どこかへ提出されることもない。
出す時期は「退職手当等の支払を受ける時まで」と決まっています。要するに、退職金が振り込まれる前です。
たいていは会社から渡されます。退職手続きの封筒に、ほかの書類と一緒に入っている。ただ、ここが落とし穴で、束の中に紛れていると重要なものに見えないんですね。離職票だの年金手帳だの、もっと目立つものが同じ封筒に入っていますから。
人事がしっかりしている会社なら、担当者が「これは必ず出してください」と念を押してくれます。逆に、退職者が少ない会社や、人事が兼任の小さな会社では、渡されないまま退職金が振り込まれてしまうこともある。そういうケースを何度か見ました。
出した場合と、出さなかった場合
ここが本題です。
申告書を出していれば、退職金には退職所得控除という大きな控除が使えます。勤続20年までは1年あたり40万円。20年を超えた分は1年あたり70万円。
| 勤続年数 | 退職所得控除額 |
|---|---|
| 20年以下 | 40万円 × 勤続年数(最低80万円) |
| 20年超 | 800万円 + 70万円 ×(勤続年数 − 20年) |
控除を引いたあと、さらに2分の1をかけます。残った金額に税率をかけて、ようやく税額が決まる。
申告書を出さなかった場合、この手順はまるごと飛ばされます。支給額に、いきなり20.42%をかける。控除もなければ、2分の1もありません。
数字で見たほうが早いと思います。
勤続35年、退職金2,000万円の方を例にします。
申告書を出していれば、退職所得控除は800万円+70万円×15年で1,850万円。2,000万円から引いて150万円。その半分の75万円が課税対象になり、所得税と復興特別所得税を合わせて38,287円。
出していなければ、2,000万円 × 20.42% で408万4,000円。
| 出した場合 | 出さなかった場合 | |
|---|---|---|
| 計算のしかた | 控除を引き、2分の1をかけ、税率をかける | 支給額に一律20.42% |
| 源泉徴収される額 | 38,287円 | 4,084,000円 |
| その後 | 原則これで完了 | 確定申告で精算 |
差は400万円を超えます。同じ退職金、同じ勤続年数、同じ人。違うのは、紙を1枚出したかどうかだけ。
なお、住民税のほうはこの紙の有無に関係なく、退職所得控除を使った計算で特別徴収されます。影響を受けるのは所得税と復興特別所得税だけです。ここは意外と知られていなくて、「住民税も余計に取られるんですか」と聞かれることがありますが、そちらは心配いりません。
「2分の1」が使えない人もいます
ひとつ補足を。先ほど「控除を引いて2分の1」と書きましたが、この2分の1が使えないケースがあります。
勤続5年以下の役員等。この場合は2分の1の適用がありません。控除を引いた全額が課税対象になります。
役員でなくても、勤続5年以下だと制限がかかります。控除を引いたあとの金額のうち、300万円を超える部分には2分の1が使えません。300万円までの部分は従来どおりです。
短期間で役員に就いて高額の退職金を受け取る、といった使われ方を防ぐための仕組みです。長く勤めて定年を迎える方には関係のない話ですが、転職して数年で辞めた方や、関連会社に出向して役員になった方は、一度確認しておいたほうがいいと思います。
出し忘れたときは、取り戻せます
では出し忘れたらどうなるのか。
結論から言うと、取り戻せます。確定申告をすればいい。
多く引かれた分は、あくまで「仮に多めに預かられている」状態です。確定申告で、申告書を出した場合と同じ計算をやり直して、差額が還付される。先ほどの例なら、400万円ほどが戻ってくることになります。
必要なのは退職所得の源泉徴収票です。退職金を受け取ったあとに会社から交付されるので、捨てずに取っておいてください。これがないと始まりません。
手続きは、退職金を受け取った年の翌年。通常の確定申告の期間に行います。
申告書の第三表、いわゆる分離課税用の用紙を使います。退職所得の欄に、源泉徴収票の数字を書き写していく。国税庁の確定申告書等作成コーナーを使えば、画面の案内に沿って入力するだけなので、紙で格闘するよりは楽だと思います。
ちなみに、還付のための申告は翌年の2月16日を待つ必要がありません。翌年の1月1日から提出できます。金額が大きいので、早めに動くに越したことはない。
期限のほうは5年間あります。何年も前に退職して、そのとき申告書を出していなかった覚えがある方。まだ間に合うかもしれません。当時の源泉徴収票が残っていれば、一度確認してみる価値はあると思います。
ただ、ひとつだけ申し上げておきたいことがあります。
戻ってくるまでに、数か月かかります。400万円が宙に浮いた状態で、その間を過ごすことになる。住宅ローンの繰上返済を予定していた方、退職後の生活費を退職金の満額ありきで組み立てていた方は、ここで一度つまずきます。
戻ってくるから大丈夫、とは言えるんです。でも資金繰りの話としては、必ずしも大丈夫ではない。相談を受けていて、そう感じたことが何度かありました。
書き方で迷いやすいところ
書く内容そのものは、多くありません。氏名、住所、退職日、勤続期間。それくらいです。
それでも、いくつか迷う箇所があります。
勤続年数の端数
1年未満の端数は切り上げます。10年2か月なら11年。2か月しかなくても1年と数えてよいので、ここで損をすることはありません。
気をつけたいのは、休職期間や出向期間がある場合です。会社の制度によって勤続年数の数え方が変わることがあるので、人事に確認したほうが確実だと思います。
過去に退職金を受け取ったことがある場合
転職経験があれば、ほぼ該当します。申告書には、以前に受け取った退職手当等を記入する欄があります。ここが空欄だと、控除額の計算がずれる。
前職の源泉徴収票が必要になるので、手元にない方は探しておいてください。もし見つからなければ、前職の会社に再発行を依頼することになります。これが地味に時間がかかります。
iDeCo・企業型DCの一時金
これも退職手当等として扱われます。受け取るときには、同じ申告書が必要です。
書類は運営管理機関から届きます。会社の退職金とは別のタイミングで来るので、忘れやすい。「会社のほうは出したから大丈夫」と思っていて、iDeCoのほうで引かれてしまった、というケースがあります。
同じ年に2か所から受け取る場合
ここはもう少し複雑です。退職金とiDeCoの一時金を同じ年に受け取る、転職して2社から受け取る、といったケース。
控除の重複を調整する計算が入るので、会社の担当者か税務署に確認したほうが確実です。この申告書の記入そのものよりも、受け取る順番と時期をどう設計するかのほうが、金額への影響は大きくなります。
最後に
退職の手続きでは、何枚も書類を書きます。そのほとんどは、出し忘れてもあとで何とかなるものです。
この一枚だけは、少し違います。出さなければ、その場で数百万円が引かれる。あとで取り戻せるとはいえ、手間も時間もかかりますし、その間の資金計画は組み直しになる。
退職の封筒を開けたら、まずこの紙があるか探してみてください。「退職所得の受給に関する申告書」。名前は長いですが、探すのはそれほど難しくないはずです。
もし見当たらなければ、人事に一本連絡を。それだけで済む話です。
この記事は国税庁の公表資料(タックスアンサーNo.1420、No.2030、退職所得申告書の手続案内)をもとに、2026年10月時点の制度で書いています。税額の計算例は一定の前提を置いた概算です。実際の手続きにあたっては、勤務先の担当部署または所轄の税務署にご確認ください。詳しくは免責事項をご覧ください。
